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日清紡グループとは

  • 社会の要請に応えてきた、これまでの日清紡グループ
  • 次世代への期待に応える、これからの日清紡グループ

社会の要請に応えてきた、これまでの日清紡グループ

第1章 高級綿糸を生産し日本の紡績業を牽引

1907(明治40)年2月、東京日本橋で綿糸布商の日比谷商店を経営していた日比谷平左衛門、横浜の事業家安部幸兵衛、そして岩崎清七、福沢桃介らによって日清紡績株式会社(現 日清紡ホールディングス株式会社)が設立されました。
新会社の設立にあたっては、かなり思い切った構想が打ち出されました。資本金は業界トップクラスの1000万円。生産規模も5万錘超の大規模なものとし、海外から輸入した新鋭の紡績機械で高級綿糸を生産することなどがその骨子です。
当時の日本の紡績業界は、太番手の輸入糸綿糸は駆逐しましたが、購入綿糸の輸入はなお続いており、この新会社(日清紡)が細番手の綿糸生産を志したことは、輸入高級綿糸に真正面から挑戦することを意味していました。

日清紡績株式会社創立事務所(堀留の東京織物問屋同業組合ビル)

日清紡績株式会社創立事務所(堀留の東京織物問屋同業組合ビル)

日清紡グループ アラカルト:社名の由来

「日清」という語が当時、流行していたことから採用されました。日本の隣国であり、広大な国土と人口を擁する清国と親善関係を保ち、貿易を通じて興隆を図ろうとの考えが基調となって、進歩的なイメージをもつ語として認知されていたようです。

「日清」を図案化した社章。「日」を輪郭と中央の丸で、「清」は清国の国旗の図案の一部をとって表現した。

「日清」を図案化した社章。「日」を輪郭と中央の丸で、「清」は清国の国旗の図案の一部をとって表現した。

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第2章 戦後の生活物資需要に応えた加工綿布『三ツ桃』ブランド

太平洋戦争によって紡績業界も大打撃を受け、綿スフ(スフはレーヨンのこと)紡績の生産量は最盛期の20%にまで減少しました。戦後は、紡績業が平和産業であるとの理由から、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から早期に設備新設を許され、外貨獲得を期待されました。1947年、紡機14万錘から再出発した日清紡は、綿布の晒晒加工品に『三ツ桃』という商標をつけて国内外に広くアピール。『三ツ桃』ブランドは、国内ではいち早く生活物資需要に応えたことから好評を博しました。また、1970年代には、英国アン王女のドレスや赤坂迎賓館のベッドシーツにも『三ツ桃』ブランドの生地が採用されました。

『三ツ桃』の商標。

『三ツ桃』の商標。

日清紡グループ アラカルト: 50年も前からノーアイロンシャツ

1960年ごろには、色やデザイン、肌ざわり、手入れのしやすさなど、消費者ニーズを捉えた製品が求められるようになりました。これに応えたのが、1961年に「水がアイロン」というキャッチコピーで発売したノーアイロンシャツ『ベスター』。綿布に特殊加工を施し、綿本来の着心地を保ったまま、ウォッシュ・アンド・ウェア性を高めた製品です。

ウォッシュ・アンド・ウェア:洗った後しわにならず、アイロンをかけないで着られること。

『ベスター』商標(輸出用)

『ベスター』商標(輸出用)

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第3章 非繊維部門を拡充しグローバル展開を推進

戦後の復興と並行して繊維事業で培った技術を活かし、自動車用ブレーキ、紙製品、メカトロニクス製品、化学品などの非繊維部門の拡充にも着手してきました。1977(昭和52)年以降の日本経済は、第二次オイルショックを乗り越え、経済成長率をプラスに維持しながら回復基調に乗るなか、新工場建設など向こう10年間で日清紡グループの非繊維部門も大きく飛躍しました。繊維部門・非繊維部門ともに海外子会社を設立するなど、グローバル展開が盛んに行われ始めた時期でもあります。

1972年に設立したブラジル日清紡(現在)

1972年に設立したブラジル日清紡(現在)

日清紡グループ アラカルト: コーポレート・ワードマーク NiSSHiNBO

1988年、創業80周年記念行事の一環として、社名をローマ字表記したコーポレート・ワードマークを制定しました。人の姿に見立てた小文字の「i」で人々の活力と協力を表現し、この「i」と日清紡の頭文字「N」とが一体化することで、人材の活力と成長が企業の発展につながるという意味を持たせています。また、マークのエンジ色には、情熱・行動力・温かさのある企業集団になりたいという想いを込めました。

コーポレート・ワードマーク

コーポレート・ワードマーク

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